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音の旅

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新世紀十年に想う

創才の世紀

日本オアシス


日本オアシス構想







私の音の旅

 私と琵琶との出会いは小学校三年生のときにさかのぼる。
昭和三十九年小林正樹監督作品の映画「怪談」である。
 小泉八雲(ラフカディオハーン)の日本に対する深い愛情と洞察によって描かれた一連の著作の中から「黒髪」「雪女」「耳無し芳一の話」「茶碗の中」の四編の映画化が試みられ、斬新な現代アートの世界と古典の幽玄が見事に融合した当時としては画期的な作品で豪華な配役陣に加えて美術と演出に凝りすぎて大きな赤字を出したと聞く。 音楽は当時すでに現代音楽の作曲家として頭角を現していた武満徹氏でジョンケージによって創案されたミュージックコンクレート技法を用いて作曲構成された。 静謚あふれる音空間はその映像の美と透けあい、反発しながら微妙不可思議な世界を現出していた。わずか八才の少年ではあったが、そのタイトルから大いに引き込まれ期待に胸は高鳴った。

 日本美の深奥と恐怖を堪能しつつ物語は展開し、やがて、未だ経験したことのないような闇を切り裂く弦音が響き、祈言のような深い発声と言葉が全身を包む。 “琵琶”という音楽に真正面から対峙した瞬間であった。 源平の戦い、壇ノ浦の戦いという知識すら全くなかった少年であったが、その音と語りは身を貫き、全身全霊で受け止めることが出来た。 そして未知なる世界が前生をさかのぼるかのように蘇える。 琵琶の持つ力に圧倒されたといってよい。

 第四編「茶碗の中」では太桿三味線(義太夫三味線)がコンクレートによって見事に使われていたが、芳一の語る平家物語と四本の弦音が深く大きくわが種子と成って植え込まれていた。 この時から私の“琵琶”を求める旅が始まった。 先ず周囲の大人に尋ねるも怪訝な顔をするか「琵琶 ?」と言って驚き、全く無縁であると強調する。 私はそのような大人達に絶望するとともに琵琶への憧れを大切な種子としつつ退屈で無味な日常に戻っていった。

 その翌年昭和四十年七月二十九日夕刻、私は自身の人生を大きく転換させられる事件に遭遇する。
幼児期を過ごした祖父母方の長男で母の弟、つまり私には叔父にあたる人が単車で帰宅途中大型トラックと衝突し即死したという。
その第一報を受け高鳴る胸の鼓動を制しつつ叔父宅へ自転車を走らせた。叔父は座敷に横たわっていた。身をゆすった。叔父は力なく頭を垂れ、流血し、再び動くことも返事をすることも無かった。全身が凍りつくように悪寒を覚えると同時に涙があふれ、一週間止まることがなかった。 焼かれて灰になった叔父の遺体を見て、死というものの現実を知った。 「父も母も祖父も祖母も、兄も姉も、そして自分も何時どういう形であれ、あのようになるんだ」と・・・人生は虚しく悲惨だと思われた。

 「こんな悲惨で虚しいのに人は何の為にあくせくするのか?」 
馬鹿馬鹿しく意味が解らない。 時は正に高度経済成長期、その生産と消費は公害を生み、環境の悪化を促進していた。 わが町も例外ではなく、公害B地区に認定された、空は常に灰色で陽の光は光化学スモッグの発生をうながす魔の光と化した。 因みに父はひどい喘息持ちで公害認定患者であった。 日本では戦争こそ無かったが、日々事故や事件、災害で生命を落とす人がいた。そのようなニュースは少年の傷をいっそう深くした。

 翌、昭和四十一年、わが春日出小学校より高野山の林間学校に向かった。南海電車は公害の町を出発し、やがて緑の空気にあふれた山間をぬって麓の極楽橋に着く、日常にはない清涼感である。 そしてケーブルで山上へ、自身の魂も軽くなってゆくのを感じる。  山上に降り立ったそのとき、私は先ず空の美しさに息をのんだ、そして広い、思わず先生に「先生、空って何?」と問いかけた、「え?」と言って答えられず、更に「空より大きなものは無いの?」ときくと「そりゃ空より大きなものはこの世にはないでー」と返って来た。 私はぐるっと見まわした。 大きな杉の林が視界に入るこの大空をさえぎる唯一のものであった。 「先生! あの杉の林はどれくらいのものなの?」「高野山には千年、二千年いやもっと長い生命を持った杉があるかもなぁ〜」「え!千年!!」当時私は十歳であったから千年ということは私の百倍のいのちということになる。 単純にそのことに感動してしまった。 そしてその瞬間、自分が大空に包まれ美しい青い玉の中に浮かんでいる得も言われぬ心地よい存在であることを感じた。 「この高野の山も杉の林も、あの汚れた大阪の町も父も母も友達も、みんなこの美しい大空の中で生きているんだ」と確信した。

 やがて、この高野の山は弘法大師空海という僧侶が開き一千二百年の長きに亘り伽藍が建てられ守られてきたことを知るに及んで、それらの人々の生命の遺産に出会える喜びを見出し、 自身も後世の人々に感動を与えられるような仕事がしたいと願った。 たとえ人の生命は短くとも、その人生の中で誰しもが感嘆するものを残せば自分の生命はつながってゆく、広がってゆく、あの大空のように、杉の大木のように、高野の文化遺産のように・・・・。

 翌、昭和四十二年正月、私は姉二人に連れられ法隆寺に行った。 参道の松並木を歩いていると、はるかなる天空から雪がちらちらと舞い降りてくる。 私は空をみあげつつ、灰色に澄んだ大空から真っ白なシルクのような美しい結晶を味わいやがて中門に至った。 古式蒼然とした法隆寺の伽藍を目にし私は姉に「この建物はどれくらい前からここに建っているの?」と尋ねた。「う〜ん。聖徳太子が建てたお寺だから千三百年かな〜」私はエンタシスの柱に抱きついて顔を寄せてみた。 桧の古香とさびた朱塗りの香りが得も言われず心地よく身体からその柱が経てきた歴史の時空が沁みこんで来る。止利仏師の作った釈迦三尊、百済観音などを拝するうち自身もこのようなものを作りたいと強く願うようになった。

 その後、私は青少年期を通して奈良の寺々を遍歴し仏像の研究と仏教思想に耽溺することとなる。 中学校のころは仏像博士の異名をとり美術の時間に講座を担当したこともあったほどで、授業中でも構わず仏像を彫り自分の机の周りが桧の木屑だらけになったこともたびたびであった。 それでも先生にたしなめられたり、友達から文句を言われることは無かった。 それは皆、私の彫る小仏像をお守りとして欲しかったからである。

  中学一年生の時、初めて能を観て深い感動を覚えた。 大阪能楽堂で毎週のように演能されている素人能楽の「大原御幸」であったが上手、下手など知る由もなく、能の持つ空気のようなものに魅かれ、かつ能面の魅力にとりつかれてしまった。 私はもとより現在の学校教育には全く関心が持てず、中学を卒業したら仏師か能面師になるべく修行したいと願っていた。 その希望は叶えられることなく高校に進学したが、ほとんど能面三昧、筝曲は特に師についていたわけではないが「千鳥の曲」「水の変態」「秋風の曲」− 昌宏庵の三大名曲と位置づけている − などに耽溺し青年邦楽集団結成に関り週一回の例会に参加して研鑽を積んでいた。

  そのメンバーの中に薩摩琵琶錦心流の奏者が居て眠っていた琵琶の種子が再び蘇生することとなった。そして彼から映画「怪談」で演奏していた琵琶の奏者が巨匠・鶴田錦史師であることを教わりレコードを貸してくれた。 求めて得られぬ琵琶の道が紆余曲折を経ながらもようやくその存在が明らかになり眼前に開かれようとしていた。 琵琶の生演奏に初めて触れたのは現在唯一人人間国宝で筑前琵琶の巨匠・山崎旭萃師の「茨木」であった。 映画「怪談」以来唯一求めたレコードが平家琵琶の演奏でその内容は映画で聞いたものとはあまりにもかけ離れており、当時としては大金をはたいて購入したのだががっかりさせられた。(このレコードは平家琵琶を伝える名古屋三検校のもので、当時はがっかりしたのだが、その後の私の演奏には少なからず影響を受けており大変価値のたかいものである)

 私が大変幸運で恵まれていると思うのは、初めて触れた琵琶の奏者が東西を代表する琵琶の名手であったことである。この二名人の影響は計り知れず、特に鶴田錦史師はその後親しく師事するに及びその芸術を継承する一人として琵琶で生かされゆく運命に大きく深い因縁の必然を感じている。山崎旭萃師についても若き日よりその芸術に触れ、慈愛あふれるお人柄と滋味深き芸術に触れ得たことは人生の宝とすべきものであることは言うまでも無い。

 私は芸術、特に歴史を伝えいのちを語る“琵琶”という日本の文化を通して、この美しく青い世界に包まれあることを私たち個人個人が自覚し、よりよき未来を創造してゆくため全生涯を傾けたいと願っている。
薩摩琵琶 関 川 鶴 祐  合掌