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幻の天才ピアニスト
エルヴィン・ニレジハージ
 Ervin Nyregyhazi

失われた天才
ケヴィン・バザーナ[著]    鈴木圭介[訳]

今から30年前、鶴祐24歳時 小池大哲(創造学園大学学長)と伴に、日本に於けるコンサート、幻の作品の初演に至る経緯が詳しく述べられております。
物質文明社会へのアンチテーゼを貫いた天才の生涯に是非触れていただき度、ご案内申し上げます。
     春秋社
     〒101-0021 千代田区外神田2-18-6
     Tel.03-3255-9611 Fax.03-3253-1384
     定価 5,040円


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1980年(昭和55年)の演奏会

1980年(昭和55年)
77歳のニレジハージ


1980年3月下旬
ロスアンゼルス パーキングスクェアにてテンプルチャーチでの
交流後、10番目の夫人 ドリス夫人とベートーベンの像の前で

1980年3月下旬
ロスアンゼルス テンプルチャーチにて
「ムーンライトソナタ」を弾奏中のニレジハージ


 1903年1月19日、ハンガリープタペストに生まれ、2才でピアノを始め、4才で作曲、6才の時フューメ(現・ユーゴスラビア領のリエカ)でショパンその他の作品と自作を弾いて公開演奏を始め、1911年6月にはバッキンガム宮殿でのマリー女王のための演奏に招かれた。 1915年、オーストラリア、ドイツ、ハンガリーへ演奏の旅を続け、僅か11歳であったが、コンサート・アーティストとして敬意をもって迎えられ、マックス・フィードラーの指揮するベルリン・フィルハーモニックによるオーケストラとのデビューを飾った。 10月14日、ベートーベンの第3番であった。 エルヴィンは1910年リスト音楽アカデミーに学び、レオ・ワイナーに理論を、ピアノリストの弟子、イストヴァン・トーマン及びアーノルド・ゼクリーに師事。 1916年からリストの直弟子フレデリク・ラモントのもとでリスト曲を集中的に叩き込まれた。 
 1920年10月18日、17才のとき、カーネギーホールにデビュー、大成功を博し、「モーツアルトかパデレフスキーの再来!」と絶賛され、大センセーションを巻き起こす。 しかし、時代は彼を思いも寄らぬ数奇な運命へと導いてゆく。 1914年第一次世界大戦勃発以来、ドイツ曲の自粛、音楽産業と芸術の葛藤、時代の波のなかでやがて公開の場での演奏を完全に停止している。 

そしてスラム街で流浪の生涯を送ること50年・・・・・・

 1973年、友人の勧めで演奏したリストの難曲「聖フランシスの伝説」は聴衆を驚愕させ、「ホロビッツもかすむ」と賞讃された。  このことが1978年3月2日ニューヨークより特派員の記事として大きく報じられ、小池大哲と関川鶴祐の知るところとなり彼を求める旅の端緒となった。

 1980年3月、彼との出会いと交流の中で、日本でのコンサートが実現し、1982年1月には彼の作品世界初演を可能にしたのは奇跡としか言いようのない出来事であった。

 私は彼との出会いを通じて、音楽の本質、人生の本質、といったものを伝えられたように思う。真の天才の存在は人類にとって救いである。 音楽産業が支配し、マスプロ化してゆく20世紀の風潮は人間を自然から切り離し、精神の自由を奪い支配する。 ニレジハージはこの大きな悪しき流れに生涯に亘って抵抗し、人生と芸術の崇高を訴え続けたのではなかろうか。 
彼は生涯、リストを愛し、自らをその精神の体現者たる自負を持っていた。  

 1986年、84才でその生涯を全うするまで、2000曲に及ぶ作品を残し、その楽譜は10人目の夫人ドーリス女史によって創造学園大学に寄贈された。

 彼の有終の美を飾った1980年と1982年の日本に於けるコンサートの音源と映像も同大学に保管されている。 ニレジハージの芸術については現在、アメリカの音楽研究家ケビン・バザーナ博士によって研究が続けられており近くその全容が世に開かれる予定である。 ニレジハージという人物については強い信念を持ち容易に妥協しないと一般には認識されているが、自身の運命には忠実であった。

 “日本”にたいしても生涯に亘り憧憬を持っていたと思われ、日本で演奏することの意味を直観していた。 そのことが即ち我々の招請を受け入れる根源ともなっていたのだ。